第9章   油注ぎ            チャールズ著



   フランシスと私が 聖霊のバプテスマを受けて間もなく、インディアナ州で伝道していました。 当時、フランシスだけが家族の中では説教者で、私は 公認会計士で、彼女について回っていました。 それでもフランシスは、彼女の説教のときには、私に少しの時間あかしをするチャンスをくれました。
  この集会で、私に与えられた3分間のあかしをしていましたが、聖霊の重い油注ぎが下り、1時間ばかりにわたり、みことばと 神様からのすばらしい言葉が、流れ出てきました。 そのメッセージはとても油注がれており、小さな子供たちでさえ 少しも動かず 完全に釘づけにされていました。 それは、神様の超自然的な働きだったのです。 私の左側には二つの講師用の椅子があり、フランシスはその一つに座っていましたが、もう一つは空いていました。 牧師は奥さんと一緒に前の席に座っていました。 フランシスは 自分の主人を 神様が重く油注ぎ、変えておられるのを見て とても驚きました。
  しばらくして、フランシスは はっきりと自分の袖が、隣に座っている誰かによって優しく動かされているのを感じました。 彼女はたぶん私の代わりに 彼女に話すようにと、牧師が知らせたのだろうと思っていました。 数分間たち、また 誰かにもう一度袖を引かれたので、今度は牧師が何を話したいのかを聞こうと振り向くと、驚いたことに、そこに見たのは牧師ではなく、リラックスして椅子にゆったりと両手を置いて 足を組んでいるイエス様を見たのです。 はっきりと見ることができましたが、透き通っていました。 イエス様の周りには、明るい青い光がありました。 フランシスは、「神様の臨在の前に、全く我を忘れ、イエス様から目を離すことができませんでした。」と話してくれました。
  イエス様はフランシスを見て、そして 講壇の隣に置いてあるオリーブ油を指さし、「あれは聖霊の象徴です。」と言い、そして私を指さし、「あれは本物の油です。 彼の上には油注ぎがあります。 今度はチャールズに話させなさい。」と言われました。 旧約聖書には、油は聖霊の象徴だ と記されているのを憶えているでしょう。 私は1時間ばかり話した後、突然話を止め、そして 「皆さんは、フランシスの話を聞きに来たと思いますので、私はここで止めます。」と言いました。 フランシスは全身に神様の栄光を輝かせて、マイクに走り寄り、会衆に自分の見たことを話し、「イエス様が、チャールズに油注ぎがあるので、彼が話すようにと語られました。」と告げました。
  もう一度私が話し始めたとき、数分戸惑いましたが、油注ぎがまたやってきました。 それはすばらしい夜でした。 私がもう一度話始めたとき、会衆の一人が 戸惑っていることがわかりました。 彼が 私に 油注ぎが戻ってくるようにと祈っていたことを、集会後に話してくれました。 彼は、力の波が 後ろの席から始まり、はずみをつけながら前の方に押し寄せてくるのを感じ、そして講壇に達し、私の中に入ったと語りました。 何とすばらしい栄光と力に満ちた夜だったでしょうか。 集会の一人の男性は、11時頃 教会を出て行き、その小さな町の通りから通りへと駆け抜け、一軒ずつドアをノックして 「聖霊が下った! 聖霊が下った!」と言ってまわりました。 炎が 彼のコートのすそから出ているのが目撃された、と報告されました。

  その後私は、油注ぎと 病人のためにいやしについて、みことばを黙想し始めました。 私は、「神様、あなたは何故 油を使うのですか。 私たちが聖霊のバプテスマを受けたなら、油は単なる聖霊の象徴ではありませんか。」と聞きました。 弟子たちが聖霊を受けた後に書かれた ヤコブ5:13 には次のようにあります。

   「あなたがたの中に、困難に遭っている人がいますか。その人は、祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は、賛美しなさい。 あなたがたの中に、病んでいる人がいますか。その人は、教会の長老たちを招いて、主の御名によってオリーブ油を注いで祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは病む人を救い、主はその人を回復させて下さいます。また、その人が罪を犯していたなら、それも赦されます。」

  私は 「イエス様、ペンテコステの前にあなたは十二弟子を二人ずつ遣わし、汚れた霊を追い出す権威を授けられました。 彼らはあなたが言われた通りのことをしました。 そして みことばにも、『こうして十二人が出て行き、悔い改めを解き広め、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。』(マルコ12、13) とあります。 もし私たちが 聖霊のバプテスマを受け、力をいただいているなら、なぜ病人をいやすために油が必要なのですか。」と聞きました。
  神様が与えてくださった答えは、神様はすべての人を平等に愛している ということです。 神様は、聖霊のバプテスマを受けていない人々よりも、聖霊のバプテスマと力を受けた人々を より多く愛している、というわけではありません。
   「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものを、あなたがたに送ります。 あなたがたは、いと高き所から 力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」という約束を、すべての人に与えられました。 神様は、私たち全員を同じように愛してくださっていますから、神様は 私たちの健康を望まれ、いやしの方法を与えてくださり、そして聖霊に満たされたクリスチャンから聖霊の力が出て、病人の身体の中に流れ込むようにしてくださったのです。 それと同時に、神様は ご自身を愛し、仕え、いやしを願う願う人々にも、その計画を備えてくださいました。 イエス様は、マルコ16:17、18で、

   「そして、信じる者には、次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびを上げて除き、毒を飲んでも決して害を受けず、また病人に手を置けばいやされます。」

と言われました。 祈りとは、一般的に、神様に何かをしていただくように願うことです。 このみことばで、イエス様は私たちに、「祈りなさい。」とは言っておられないことに注目してください。 手を置いていやすように命じています。 しかし、私たちは、求められれば、油を注ぎます。 これも病人をいやす方法だからです。 しかし私たちは、個人的には、聖霊のバプテスマを受けた人々には、(物質としての)油は必ずしも必要ない と感じています。 それは、その人の中の神様の力が、病人の身体と心の中に その人の手を通して流れ込み、その力によっていやされるからです。 もし、あなたがまだ聖霊のバプテスマと力を受けていなければ、あなたには みことばの権威が与えられてり、神様に働いていただくよう願う事ができ、それにより 神様はみわざを行なってくださるのです。 神様のみことばは、私たち人間の理解によって制限されることはありませんから、神様は油を用いて病人をいやす場合など、多くの他の方法を持っておられると思います。 神様は 私がここに記した他の方法をも あなたに示してくださるでしょう。 それはすばらしいことです。 神様が示されたことをいつもしてください。 なぜなら、神様は いつも私たちの思う方法を取られるとは限らないからです。

   「しかしながら、神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 この世で低い身分の人々や軽んじられている人々を、神は選ばれました。それは、有るものを廃止させ、無いものとするため、無きに等しい者を選ばれたのです。 それは、すべての肉なる者が、神の御前に誇ることがないためです。」 (Tコリント1:27−29)

  フランシスは、神様があえて愚かな者を用いて 行なわれる、すばらしく 力強い奇跡のわざを語るのが好きです。 ルイジアナ州の小さな町で、何人かの婦人が友人の癌のために祈っていました。 ヤコブ書で、長老たちが油を注ぎ、いやしのための信仰の祈りをするのを読みました。 そこで彼女たちは みことばに従う決心をしたのです。 牧師は事務所にいなく、長老もいませんでした。 自分たちで何とかしなければならないと感じ、他に誰もいなかったので、自分たちが長老の代役を果たせる と感じました。 食料品店で4リットルの食用油を買いました。 病人はベッドに寝ていましたが、聖書にはっきりと 病人の祈りの時に どれくらいの油を注ぐか記していなかったので、信仰の祈りをささげながら 4リットルの油を全部注ぎました! 神様は彼らの信仰を受け入れられ、その婦人は癌から完全にいやされたのです。 神様に栄光を帰します。 私は4リットルの油を勧めませんが、この場合すばらしい結果を生みました。

  私たちが教えていることの他にも、もしあなたが病人をいやすことに成功しておられれば、その方法を止めず 変えないで続けてください。 神様が導かれるままにしてください。 しかし、もしあなたが全員をいやしていなければ、私たちの方法をやってみて、それがあなたにも効果があるか 試してください。
  神様が全権を持っておられる方であることを、忘れないでください。





   第10章   とりなしの祈りによる いやし         フランシス著



   マタイ8章にある 百卒長が イエス様に次のように言ったことを憶えていますか。

   「ただ、おことばをいただかせてください。 そうすれば、私のしもべはいやされます。」

  今日も同様に 人々はいやされます。 遠くに住んでいる友人や親類のために 祈りの列に加わると、彼らは神様の力によっていやされるのです。 それは、神様は 遍在(へんざい)される方だからです。 神様は、同時にどこにでもいることができるとは、なんとすばらしく、興味深いことでしょう。

  数年前、私はヒューストンの近くのカリスマ的でない教会に招かれました。 集会の終わりに、私は、神様が、肉なる者にご自身の霊を注がれた時、今日 世界中で何が起こっているかを話しました。 私たちは本当に終わりの時代にいることを、心から信じていると語りました。 私たちの次の世代があるとは信じていません。 この時代が終わる前に、イエス様が来られると信じています。 ですから、以前よりも増して、さらに大いなる神様の霊の注ぎかけがあることを 信じている、と語りました。
  集会後、一人の婦人がやってきて、医者も見放している友人がいることを話してくれました。 遠くの病院の救急室にいたのです。 彼女は私に、「神様が 彼女をいやしてくださると 信じていますか。」と聞きました。 私は彼女に、自分の知っていることは全部、聖書に書かれていることであり、マタイ8:13に、

   「それからイエスは百卒長に、「行きなさい。あなたの信じたとおりに、あなたになるように。」と言われた。すると、ちょうどその時に、しもべはいやされた。」

とあることを話しました。 私は、「私は何を失わねばならないのか。」と自問しました。 私が病人に手を置くとき、いやされようと、いやされまいと、私には何も失うものは無いのです。 なぜなら聖書は、自分自身に死ぬように と言っていますから。 もし、自分自身に死んだなら、評判は気にならなくなります。 死人は棺の上に座って 「私の評判は一体どうなりますか。」と文句を言いません。 私はこの婦人の友人のために祈り始めました。 「天の父よ、私はその人が誰であるかさえ知りません。 どこが悪いのかも知りません。 しかし神様、どうか超自然的働きを成し、彼女の頭のてっぺんから、足の先まで、完全に健康にしてください。 感謝します。」と、祈りました

  この「感謝します」は、とても大切な言葉です。 もし私たちが 神様が私たちの祈りを聞いてくださった と 心から信じるなら、「感謝します」と言わなければなりません。 祈りの列で 数千人のために祈ったとしても、一人ずつ「感謝します」と言ってください。 感謝します、と言うたびに、あなたは神様に、「いやされたことを信じます。 そして、イエスの御名によって 奇跡が完成されたことを受け入れます。」と、言っているのです。
  その婦人の友人のために祈った後、私は、「イエス様、感謝します。」と言い、そして それまで一度もしなかったことをしました。 時計を見て、「11時37分です。」と言いました。 私は、その時なぜそのように言ったのか 分りませんでした。 今は分かります。 ずっと離れた病院では、同じ時刻の11時37分に、何かが起こっていたのです。 イエス様が病室に入って来られたのです。 癌で死にそうになり、ベッドで寝ているはずのその婦人は、すぐにベッドから起き上がりました。 彼女は、自分で自分の体中の針を注意深く抜き取り、酸素チューブを外し、病院の廊下を歩いて行き、看護婦長のいる部屋に行きました。 とても驚いた看護婦長は、「一体どうしたのですか。」と聞きました。 彼女は、「11時37分に、イエス様が部屋に入って来られ、『シェリー、ベッドから起き上がりなさい。 あなたはいやされました。』と言われたのです。」と、話しました。 婦長は「あなたは幻を見たのですか。」と尋ねました。 シェリーは、「いいえ、イエス・キリストが私の部屋に一人で歩いて来られたのです。」と言いました。

  私たちは、何と 愛に満ちた 天の父を持っていることでしょうか。 私が祈った瞬間、神様の超自然の力が 彼女に触れ、神様は私に時計を見るように語られました。 それは、遠く離れた病室で、同じ時間に、イエス様が 祈りの答えとして働かれたことを、私たちが知るためでした。 時々、私たちは 目の前で手を置き、祈る方がずっと簡単に見えますが、遠くにいる人々のために とりなしの祈りを始め、神様が成される奇跡を体験してください。 急いで、今 祈りのリクエストを作って、祈りにいそしんでください。





   第11章   祈りの布を用いての いやし        フランシス著



   祈りの布は、病人のいやしの もう一つの方法です。 私が知っている限り、聖書にはこのことを 一度だけ 言及していますが、神様にとっては このことについては、それ以上 語る必要がなかったのです。 というのは、もし聖書の中で起こったならば、今日にも 起こりうるからです。 使徒19:11、12 には、

   「神は、パウロの手によって、力のわざのみならずいつもは起こらないわざ、次々と行なわれた。 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐい(鉢巻き、頭の汗ぬぐい)や前掛けを外して、病人に当てると、その病気が去り、悪霊が出て行くのであった。」

とあります。 私たちのところに 手紙で、「もしあなたが このハンカチに祈ってくだされば、(または祈りの布を送ってください) 私はいやされると信じています。」と書いてくる人々によく、事務所から祈りの布を送ります。 私たちの理性ではなかなか理解できませんが、神様の油注ぎがある時には、小さな布に力があります。 すばらしい無限の神様の力は、どのような物にも入りますから、人々が祈りの布を求めてきたときには、私たちは小さな5センチ角の ポリエステルの布を送ります。 私たちがこの布に手を置いて、神様の奇跡を祈り、郵送しない限り、この布自体は何でもありません。 私たちは、この小さな布が油注がれていると 信じているので、人々に送った時、多くの人々はいやされているのです。


  もっとすばらしいことの一つは、英国のフェイルワースのおばあさんから、一通の手紙をいただいたときから始まりました。 彼女は私たちのいやしの伝道を聞き、手紙を書いてきたのです。 手紙には、「私の孫息子は、生まれつきお尻に欠陥があり、その上 脳水腫です。」とありました。 脳水腫の赤ちゃんは 長く生きることはとてもまれで、ひどい身体的 奇形です。 それは悪魔がもたらしたもので、神様は決してそれを与えません。 「もしあなたが英国に来る事ができなければ、どうぞ祈りの布を送ってください。」とありました。 英国は テキサス州のヒューストンからとても遠い所です。 そこで、私たちと事務所のスタッフは 布に手を置きました。 神様に、いやしの力を入れてもらい、赤ちゃんに置かれた時、よみがえりの力が 布から赤ちゃんの身体の中に流れ込み、完全にいやされるように、と祈りました。
  私たちは 超自然的な信仰で、この小さな布切れに祈り、送りました。 布が届いたとき、赤ちゃんは寝ていました。 そこでおばあさんは、その小さな布を折って丸めて 赤ちゃんの手に握らせました。 このようにして 接触したのです!
  おばあさんは、あの小さな布が赤ちゃんの手に触れた瞬間、脳水腫の頭は 普通の大きさに戻った、と 手紙に書いてくれました。 その赤ちゃんはもはや脳水腫ではありません。 完全に瞬間的に、神様の力によっていやされたのです。 あの英国のおばあさんへの私たちの手紙は、はるか大西洋を渡って 届けられました。 小さな封筒だったのですが、神様の油注ぎが その布に留まり、ヒューストンから送られ、ニューヨーク、ロンドン、そしてフェイルワースまで、いろいろな道を通ったことでしょう。 それでも神様の力は、その中に留まりました。 私たちが祈ってから 赤ちゃんの手に置かれるまで、たぶん1週間か10日かかったと思いますが、神様の力は少しも弱まりませんでした。 神様の力は、私たちが祈った時と同様に強く、そのおばあさんの信仰も 同様でした。
  2週間後に、赤ちゃんは病院に連れて行かれ、医者は赤ちゃんのお尻のレントゲンを撮ったところ、二つの完全なお尻の受骨(?)が 造られていました。 その赤ちゃんは 生まれつきお尻の受骨が全く無かったのに、今では 二つともできているのです。 おばあさんは、医者が次のように語ったと言いました。 「この子は同じ赤ちゃんではありません。 診察記録では、赤ちゃんはお尻の受骨がなく、脳水腫にかかっていました。 なぜあなたはこの赤ちゃんを連れてきたのですか。 この赤ちゃんは脳水腫にかかっていないし、二つのお尻の受骨が ゆあんとあるではないですか。」 ハレルヤ!

  祈りの布は、いやし以外にも用いられます。 シティー・オブ・ライトで、私が祈りの布について教えていたとき、一人の生徒が立ち上がり、次のあかしを始めました。 「3年前、あなたは私に祈りの布を下さいました。 家に持ち帰り、私の主人の枕の下に置き、今年中に救われることを信じるようにと、あなたは言いました。 以前は、祈りの布など関心がなかったのです。それは、他の伝道団体から、献金をすれば 祈りの布を送るという手紙をよくいただいたからです。 その日、それは、私の主人を救いに導いた単なる布だけではなく、聖霊の油注ぎがあることに気づきました。 神様に感謝します。 昨日が、主人の救いの3年目で、主人は教会でそのことをあかししました。」 祈りの布には効果があります!
  もしあなたが、聖霊のバプテスマを受けているなら、小さな布に手を置いて、必要な所に置くことを始めてみてください。 ベッドの下に、祈りの布を置くことにより、多くのご主人が救われました
  また、学校の先生の椅子の下に 祈りの布をのりで付けて、先生たちが救われた ということを、手紙で書いてきました。 私は、先生が生徒の椅子の下に、祈りの布をのりで付けるのを聞いたことはありませんが、とても良い考えだと思います。
  また、偉大な伝道者に手を置いて祈ってもらう必要はありません。 あなたも、同じ 神様の力を いただいているのです。 ですから私たちは、この本にとても期待しています。 この本をあなたが読むことによって、どのようなことが起こるか 聞くのを、待ちきれないのです。 頑張りましょう!





   第12章   病人をいやす他の方法         フランシス著



   ● 信仰の実行:

  いつも覚えていなければならない大切なことの一つは、神様は私たちをいやしたい と願っておられる、ということです。 みことばには、何度も、神様はご自身のいやしの力について、私たちを教えており、今日でも その力を実際に用いてもらいたい と願っているのです。
  マタイ12:10−13は、信仰を実行に移すためのみことばで、いやしを実現する 最も大切な方法です。

   「すると、見よ、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に人をいやすことは、合法ですか(律法にかなっているか)。』と尋ねた。 イエスは彼らに言われた。『あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちたならば、手をかけて引き上げないでしょうか。 人は羊よりも、はるかに優れているではありませんか。だから、安息日に良いことをするのは、合法です。』 そしてイエスはその人に、「手を前に伸ばしなさい。」と言われた。そこで手を前に伸ばすと、反対の手と同じように良くなった。」

  これは信仰の実行です。 イエス様は彼に、あることをするように求めました。 たぶん彼は、そこに 小さな萎えた手を下げたまま座って、「イエス様、私は萎えた手で生まれました。 ほら私は手を伸ばすことはできません。」と言うこともできたでしょうが、彼はそうしなかったのです。 彼はイエス様が言われた通りのことを、しました。 彼が自分の信仰を実行に移した時に、彼の腕は完全に治りました。
  この同じ物語が マルコ3:1−5、 ルカ6:6−10 に記されています。 全く同じ物語ですが、この3人の著者の それぞれの違った見方があります。 神様は聖書を編集し、思いのまま取り除くこともできたでしょうが、この物語が事実であることを信じさせるために、繰り返しておられるのです。 この本の中にも私たちは何度も、同じみことばを用いていることに気づいておられるでしょう。 それは皆さんの脳裏にしっかりと記憶されるためです。

   「イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで泥をこね、その泥を盲人の両目に塗リ広げて、言われた。 『シロアム(訳すと、遣わされた者、の意味)の池に行って洗いなさい。』  そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」 (ヨハネ9:6、7)

  いつ 奇跡が起こったのでしょうか? イエス様がつばきをした その時でしょうか。 泥をこねられたときですか。 それは、彼が 信仰を行動に移した時でした。 イエス様はあちこちにつばきを吐くことができたでしょう。 多くの泥を作ることができたでしょう。 そして、その泥を手あたり次第 盲人につけることもできたでしょう。 しかし、「シロアムの池で洗いなさい。」との命令に従うまでは、誰もいやされなかったと 私は信じています。 これは馬鹿らしい命令です。 なぜなら、その男性は盲人だったのです。 どのようにしてシロアムの池まで行くことができたのでしょうか。 彼は何度もそこに行きましたが、助けが必要だったのです。 神様はいつも超自然的なことをされます。 神様は盲人を どのような通りでもぶつからないで導くことができるお方です。
  その盲人は、「シロアムの池まではとても遠いです。 ちょっとだけ触れてくだされば 私はいやされます。」と言うことができたでしょう。 また、「どのようにして そこまで行くか分りません。」とか、「あの池の臭いは嫌いです。 硫黄の臭いがするのです。」とも言うことができたでしょう。 彼はあらゆる言い訳をする事ができたでしょうが、一度 命令に従い、シロアムの池に行き、目から泥を洗い落とした時、神様の力でいやされました。 なぜなら、彼は 信仰を行動に移したからです。

  私たちは、この本の中に、多くの人々が信仰を行動に移した時にいやされた話をしてきました。 U列王記5:1−15 に記されている ナアマン将軍の話は、信仰を行動に移したとてもすばらしい物語です。 聖書には ナアマン将軍は偉大な、尊敬された勇士だったとありますが、らい病(ハンセン病)にかかっていました。 悪魔は誰でも攻撃します。 悪魔は いつも貧しい名もない人を攻撃するとは限りません。 悪魔は、一番上の将軍から 一番下の歩兵まで攻撃します。 この偉大な将軍の人生に、大きな影響を与えた一人の少女がいました。 多くの人々は小さな少女など ほとんど役に立たないと思っているでしょうが、この少女はナアマンに、どのようにいやされるかを教えたのです。 神様が指示を与えたのは この家で一番身分の低い者でした。 何度も話していますように、神様は決して人を偏り見ないお方です。 あなたが誰であろうと、神様には問題ではありません。 神様は、あなたが神様の言われたことに 喜んで従うかどうかを見ておられるのです。 ナアマンはこのいやしを買おうと、多くの金や銀を持っていきました。 しかし、神様のいやしを 買うことはできません。 神様のいやしは、全く無代価です。 二千年前、イエス様が十字架の上で死なれた時、その代価はすでに支払われました。 ナアマンが玄関に来た時、彼はたぶんエリシャが出迎えて、「いらっしゃいませ、大将軍様。 今日ここにおいでくださり とてもうれしく思います。 あなたが偉大な将軍であり 多くの富と戦車を持っておられ、とても尊敬しております。」と言うのを期待していたのでしょう。 しかしエリシャは、出迎えさえしませんでした。 エリシャは、全く 無礼だったのです。
  神様がナアマンに 何かを教えておられたのだと思います。 というのは、エリシャは使いを送って ヨルダン川に七度浸かると 完全に治る、と言ったからです。 ここでナアマンは、大きな決心をしなければなりませんでした。 ヨルダン川は、ナアマンの裏庭にある川と比べ、決してきれいな川とは言えませんでした。 もしあなたが 自分の最高の晴れ着を着て、すべて最高のものを身に着けて行ったにもかかわらず、この預言者が 簡単に、泥臭い川に行き 七回浸かりなさい、と言えば、どのように感じるでしょうか。 一回ではなく、七回もです。 あなたもナアマンと同じ反応を示したのではないでしょうか。 彼は怒りました。 しかし、感謝なことに、ナアマンにはすばらしい家来がいて、もしエリヤが彼に何か難しいことをするように と言えば、それをしたでしょう と、諭しました。 しかし、エリシャは、ナアマンの威厳を損なうようなことをするように 伝えたのです。 多くの人々も同じ問題を持っています。 しかしナアマンは 友人たちの助言を受け入れ、ヨルダン川に下り 晴れ着姿で 七回身を浸したのです。 泥の川から上がってきた後、その晴れ着のクリーニング代はどれだけかかったでしょう。 しかし、彼は従いました。 ハレルヤ! ナアマンは、一回、二回、・・・ 六回、そして、七回 身を浸しました。 そうです。 七とは、神様の完全数なのです。 もしナアマンが絶対従おうとしなかったならば、彼はらい病で死んでいたことでしょう。 しかし彼は喜んで従い、自らを低くして、泥の川に身を浸したために、神様の力によって いやされました。 彼は、信仰を 行動に移したのです。

  信仰は行動に移すべきものなのです。 机上のものではありません。 信仰にどっちつかずはないのです。 上がっているか、下がっているかのどちらかです。 同じ状態で止まっていることはありません。 毎日みことばを読み、実行すれば、一体何が起こりますか。上に上がり続けて行きます。 反対に みことばから離れていれば、どうなりますか。 下がり続けてしまいます。 ですから、信仰は行動に移さなければならないのです。 聖書を読まなければなりません。 聖書を読むことは、信仰を行動に移す行為だということを 知っていますか。 聖書を読むには、スタミナや 自己訓練が必要です。 ですから、私たちはいつも信仰を行動に移す必要があります。 もしあなたが出て行き、信仰を行動に移したことがなく、この教えを実践しなければ、どれだけのことを成し遂げる事ができるでしょうか。 何もできません! しかしもし、実践すればどうなるでしょう。 すべてです。 すべてです。 何でもできるようになります!


   ● 聖霊の力に倒される:

  私たちのすばらしいいやしは、人々が神様の力に倒されている間に よく起こりました。 本当に 心わくわくさせるようなことが、7年前に起こりました。
  一人の若い婦人が 私たちの集会に 精神病院から連れて来られました。 彼女は薬漬けになっていましたが、彼女の母親は もし私たちが手を置けばいやされる と信じていました。 彼女は集会のことについては何も知りませんでした。 無理やりに連れて来られ、一体何が起こっているかさえ 分りませんでした。 集会の終わりに、母親は彼女を前に連れてきて、私たちは彼女に手を置いて祈りました。 彼女は神様の力に倒され、そして私たちは、それから7年間彼女に会いませんでした。 彼女は次のように話しました。 「私は集会のことは何も覚えていません。 集会に出席したことさえ覚えていません。 ただ覚えていることは、床で目が覚め、イエス様が私に両手を広げていたことです。 その瞬間私は救われ、それまで全く知らなかった異言を語り始めました。 私の頭は完全にはっきりしており、神様の力に倒されて以来 何一つ問題はありません。 奇跡が私に起こったのです。」 救われ、同時に 聖霊のバプテスマを受けいやされたのです。 神様に栄光あれ!
  ある夜の集会後、フルゴスペルの会長が私たちをホテルに送ってくださる途中、奥さんが、「今夜、私は集会にあまりにも引き込まれて、自分のいやしのために祈ってもらうことを忘れていました。」と言いました。 チャールズが「イエス様に 何をしてもらいたいですか。」と聞くと、彼女は「私は生まれつき背骨に欠損があり、生涯 痛みを持ち続けているのです。 実際、私の母はよく私をブランケットにくるみ、痛みを和らげるためにオーブンに入れた位です。」と言いました。 チャールズは、「ホテルに着いてすぐに手を置きましょう。」と言いました。 私たちはその通りにホテルのロビーで行ないました。 彼女は神様の力で倒され、倒れている間に 身体は床の上で動き続けました。 彼女は、「身体の中で何かが起こっているようです。」と言いました。 彼女は床から起き上がり、「痛みはもう全くなくなりました。」と言いました。 彼女は 身体の中に何かが造られ、床に倒れている間に つながったように感じた、と言いました。 その後も彼女から便りがあり、彼女が倒れている間、神様はすばらしいことを成してくださったので今とても喜んでいる、ということです。 神様の力に倒されるとき、力が働きます。


   ● 産まず女:

  私は 子供を産むことができない人々に対して、特別な信仰を持っています。 私は この分野で働くのがとても好きで、世界中に、「ハンターの子供たち」がいます。
  みことばを2か所用います。 詩篇113:9、

   「主は 子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として 家に住まわせる。 ハレルヤ。」

  そして、出エジプト記23:26、

   「あなたの国のうちには 流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。」

です。 私たちのところには、何年も子供を持つことができなかった夫妻が、健康な子供を産んだという多くの奇跡の記録があります。 多くの場合、それらの夫妻は 聖霊に倒されており、その間にいやしが行なわれているのです。 神様に栄光あれ!


   ● 脳溢血:

  3年間 右半身不随になっている一人の男性がいました。 彼の足は棒のように固く、曲げることが全くできません。 また、右手も全く動かす事ができず、手を握りしめたまま腰のあたりに上がったままで、血液の循環が悪いたmwに 白くなっていました。 彼のいやしを始めたとき、神様の霊がとても強く私に下り、ちょうど暖かいエネルギーが頭から肩へと すべての細胞に流れ下るようで、神様は私の脳の中に静かに、しかもはっきりと、「死の霊」と語ってくださいました。 私はすべてを理解できませんでしたが、神様が語ってくださったとわかっていました。 そして、もし神様が、それがあるだと言われるなら、追い出さなければなりません。 また、イエス様は 霊をそのしわざによって呼ばれたことも、知っていました。 深く考えませんでしたが、私はすぐ 聖霊の力によって悪魔を縛り、「死の霊」に イエスの名によって出てくるよう命じました
  それから「知識の言葉」が働き始めましたが、後になるまで、神様が 脳溢血の人をどのようにいやすかを、超自然の賜物を通して 私に語ってくださっているとは気がつきませんでした。

  私は治療するのと同様の方法で始めました。 まず、「『イエス様、愛しています。』と 言ってください。」と言いました。 彼は 私の言葉を繰り返しましたが、はっきりしていませんでした。 奥さんは、それまで彼が全く話す事ができなかったので とても興奮しました。 それから私は彼の手を取り、ひじを前後に曲げはじめました。 最初はとても堅かったのですが、だんだんと曲がり始めました。 その手は硬直していませんでした。 すぐに柔らかくなり、彼は動かす事ができるようになりました。 最初は少しでしたが、最後にはほとんど普通になりました。 足にも同様にしました。 それから 握りこぶしを開き、指を前後に動かし始めました。 5分間も経つと、彼は誰の助けも借りずに 自分で腕を上げ、足を曲げて歩くことができるようになりました。 4日後には 完全に治りました。
  他の集会では、脳溢血のため 顔の左側が不随になっている一人の婦人がいました。 死の霊に 出てくるように命じ、彼女に 自分の顔を5分くらい叩くように言いました。 すると感覚が完全に戻ってきたのです。

  これと同じ方法でいやされた人々が多くいますが、ある人々はいやされなかったように見えます。 私は個人的に、彼らの環境が いやしに大きく影響しているのではないかと、信じています。 もし家族や友人に全く信仰がなく、少しも励まさず、助けなければ、いやしが始まっても後退してしまいます。 しかし、もし 彼らと信仰の強い人が共にいて、励まし、共に働けば、すばらしい結果が出てくると信じています。
  私がやった同じ方法で、脳溢血の人をいやす事ができます。 しかし いやしを行なっているとき、忍耐強く、愛をもって してください。 しかし、同情してはいけません。 なぜなら同情は、脳溢血にとって一番大きな敵だからです。
  聖霊に満たされた医者に、脳溢血について聞きました。 彼は、「普通、血液の固まりが血管に詰まっているか、破裂しているかのどちらかで、それによって 酸素や栄養物が脳細胞に運ばれるのを妨げられ、その結果 脳細胞は死んだ状態になります。 治療によってその死んでいた細胞が再び生き返り、活動するようになることもある。」と説明してくれました。
  私が信じているのは、「死の霊」が追い出されれば、血液の固まりをもたらしていた霊が去り、血液の流れが再開する ということです。 正さなければならないことは、信仰をもって 脳と麻痺している部分との間を、もう一度つなぐ治療を行うことなのです。 腕や足や指を動かし、また舌を動かし話すことによって、脳は命令を送り始め、麻痺していた部分が働き始めるのです。
  腕や足は、実は 悪くないのです。 脳が命令を送ることができなくなったために、腕や足が動かなくなるのです。 もしあなたが 医者や看護師で、医学的に見て 私の言ったことが十分でなくても、私の言わんとしていることはお分かりになるでしょう。
  手足を曲げるときには注意してください。 なぜなら、もし人々がいやされていなければ、さらに傷つけることになるからです。 脳溢血の人は 普通、話をするときに泣きます。 手足を曲げて、本当に痛い時と、痛いふりをしているときがあります。 ですから聖霊の特別な敏感さが必要になります。 私は普通、脳溢血の人々に、「痛みの霊を追い出しますから、曲げるときに痛みません。」と言います。 もし私が 悪霊によるものではないと感じたならば、時には 「痛み」そのものを叱りつけます。 そうすると、ほとんどの場合、痛みは去ります。


   ● 花粉症と 蓄膿症:

  1970年に神様は 私の花粉症をいやしてくださいました。 35年以上も苦しみました。 神様は超自然的にいやしてくださいましたが、それでもまだ 時々出てきます。 1977年頃にはとてもひどく、私は毎日 薬を3錠飲み、3週間か4週間ごとに、感染を防ぐために注射をしなければなりませんでした。 ついに私たち二人は、昼夜 一年続けて、「神様、どうぞ、どうすれば治るのか教えて下さい。」と祈りました。 この後間もなく、私たちはフロリダの医者の所に食事に招かれました。 奥さんが、「申し訳ありませんが 私たちにはコーヒーも紅茶もありません。 私たち家族はとてもひどい蓄膿症にかかっていて コーヒーも紅茶もやめて、ジュースを多く飲むようになりました。 すると、私たちの家族の蓄膿症は3−4週間の間に完全に治りました。」と言ったのです。
  私は、「神様感謝します。」と言いました。 私は、コーヒーと紅茶を止め、オレンジジュースやリンゴジュースをできる限り飲み始め、数週間のうちに蓄膿症(花粉症?)はいやされたのです。
  私たちの 歌手の友人が、蓄膿症のために医者に行きました。 医者は彼に「毎日14杯の水を飲むように。」と書いた一枚の紙きれを渡しました。 彼はそれを見て、「先生、私は蓄膿症が乾くようにしてもらいたいのです。」と言いましたが、彼はその通りにいやされたのです。
  すべてのいやしは、薬からであろうと、常識からであろうと、それは神様から来ます。 この程度のいやしは、古くからの常識に関係あるように思えます。


   ● 大衆の いやし:

  背中、首、ひざは 多くの人々が持っている問題の3つの部分です。 神様が、グループでいやすように示してくださっているときには、どのような問題であろうと、聖霊が私たちに示してくださってる人々を 前に呼びます。 すると そのときにいやされるのです。 一列の並んでもらい、どのようにするのか説明します。 私たちは 病人に手を置き(タッチし)、信仰の行動をとらせる という原則を用います。 私たちは、彼らの首や ひざに 手を置くと同時に、できるだけ動かしてもらうように頼みます。 私たちは、信仰が行動に移されると いやしが行なわれる、ということに よく気づきました。 そしてまた、動かさなかった人々は いやされない、ということにも気づきました。
  100人以上の人々が 同時に首のいやしを受けたこともありました。 また、信仰を行動に移した時、同様なことが ひざにも起こりました。 これはどのような病にも 起こりうることです。 ある夜は、200人以上の人々が 同時に、関節炎のいやしを受けました。 関節炎がいやされるとき、会場中に骨が鳴る音が響き渡りました。
  背中の問題は 別の種類ですから、他の章で話しましょう。

  たぶんあなたは、一人以上の人々を扱うことはないかもしれませんが、神様があなたを通して何をしてくださるかを 誰が想像できるでしょうか。 大衆を取り扱うことになるかもしれません。 そうすれば、どのようにするかを知る必要があります。


   ● 成功への手がかり:

  個人的にいやしを受け、いやしを行ないたいと願っている皆さんの助けとして、病人をいやす方法の、いくつかの手がかりをお教えすることができたと信じます。
  もし私たちが、典型的な普通のクリスチャンに、個人的にいやしを行なうように頼めば、彼らがまず最初にすることは、しっかりと目を閉じることです。 何らかの理由で 私たちは”宗教的”になろうとします。 あるいは、私たちがどんなに霊的な人間であるか神様に印象付けようとします。 次に、覚えておくべき幾つかのことを記しましょう。
   信仰深いふりをしても 病人はいやされません。   宗教的になっても 病人はいやされません。
   しっかり堅く目を閉じても 病人はいやされません。   恐れを持っていやしを行なっても 病人はいやされません。
  私たちが取り扱ってきたすべての人々がいやされてきたわけではありませんが、いつも 多くの人がいやされています。 ですから、「自分」を捨て、「人々が自分のことをどのように思うだろうか」と心配しないで、主イエスの御名により、病人をいやす方法を学んでください。 何をするにも自然であってください。 できるだけ自然であってください。

  私の聖書の裏には、「私が祈る時、あなたは話をしないように。」と書いてあります。 その理由は、イエス様が 私たちが心を合わせるようにと言われ、そして 二人、または三人が心を合わせて祈るなら・触れるなら、その通りになる、と言われたからです。 もし私があなたのいやしを行なっているなら、神様はあなたのために 特別な「知恵・知識の言葉」を語られるかもしれません。 しかし、もし あなたが、「イエス様感謝します。 どうぞ私をいやしてください。」と言っているなら、あなたは私の言っている言葉を聞いていないことになります。 いやされるために必要なみことばを 聞いていないことになります。 それは、人間の頭は、聞くことと話すことが 同時にできないからです。 あなたは 与えることと、受けることを 同時にすることはできないのです。
  もし あなたも 私も 同時に祈っていれば、私の言っていることがわからないので、どうして私と心を合わせることができるでしょうか? また、私があなたの言っていることを聞くことができなければ、どうしてあなたに心を合わせることができるでしょうか。 もさなたが、神様を愛し、賛美をしたければ、あらゆる方法でやってください。 自分の言語で賛美し、異言で賛美し、御名を呼び、みことばを語ってください。 しかし、あなたがいやしてもらっていれば、耳をしっかり開いて、口を閉じ、話をしないようにしてください。
  私がこのように言う特別な理由は、私たちが手を置いているとき、彼らが祈ったり、また異言を語っていると、ほとんどの人は 神様の力に倒されない ということに気づいたからです。 そして、いやしを受けることもできません。 神様を賛美し礼拝することはすばらしいことですが、完全に心を合わせることができず、気が散るなら、賛美をする適当な時ではありません。

  数人の人が、個人的に私のところに来て、「私の手に、ちょうどイエス様がくぎを打たれた箇所に、燃えるようなひどい痛みがあります。 その痛みが来た時、いやしの力をいただいたのがわかります。」と言ってきました。 イエス様は私たちの手に 燃えるような感じや、その他の特別な感覚について、注意するようにと言ったのではなく、信じる私たちに、出て行って病人に手を置いて いやすように、と言われたことを いつも覚えていましょう。
  絶対に、あなたの感覚だけに頼らないようにしてください。 私たちは多くの場合、特別な油注ぎを感じたりしませんでしたが、自分の感覚に頼らず神様のことばに立ったとき、すばらしい奇跡が行なわれてきました。 いやしの代わりに感覚を求めていると、あなたを通して神様が成したい事を 失ってしまう結果になります。

  あわれみの心を深めてください。 決して律法的にならないように。 そうしないと、神様の愛を 追い出してしまうことになりますから。 病人と 傷ついている人々に対する 特別な愛を、神様からいただくようにしてください。






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